コーヒー栽培流出の歴史 インドの泥棒が世界を変えた

2022/01/19
コーヒー栽培流出の歴史 インドの泥棒が世界を変えた

前回はコーヒーの発見からイスラム世界での発展について書いていきました。

前回お伝えしたように17世紀までにはコーヒーは西洋でも広く飲まれるようになっていましたが、まだその供給地はイエメンに限られていました。

コーヒーはもともと修道者のみに伝わる秘薬であったことや、商売上の理由からもその栽培はイスラム教寺院によって管理され、栽培が可能な種や苗木の持ち出しは禁じられていたのです。

しかし、その独占体制も永遠に続くわけもなく、コーヒーが生み出す多額の利益に関心をもった人たちが少しずつ種や苗が流出させ、世界の各地で栽培されるようになっていきました。

その歴史が現代のコーヒーの生産地へとつながってくることになります。

今回はイスラムに独占されていたコーヒーが世界に広がっていく過程を見ていきたいと思います。

コーヒーの栽培はイエメンによって独占されていた

コーヒーの原産地はエチオピアですが、そこからアラビア半島にわたり、16世紀にはイエメンの山岳地帯で栽培が行われるようになりました。

イエメンの山岳地帯

当時コーヒーはイスラム商人の専売特許であり、ヨーロッパの商人もこぞって買いに来ていたため非常に儲かる商品だったのです。

そのため、コーヒーの栽培はイエメンのイスラム教寺院によって厳しい管理のもと独占的に行われ、栽培可能な状態での外国への持ち出しが禁じられていました。この掟を破った商品には多額の罰金などの重罪も課されました。

もちろんそのような独占体制をよく思わないのが人の心理。

当時の世界の中心であったヨーロッパ人たちはその利益の奪取をもくろみ、自国や植民地での栽培を試みるようになりました。

そして次第にコーヒー豆や苗木が流出していくようになります。

1658年 オランダ人がセイロン島へのコーヒー持ち出しを試みる

17世紀、ヨーロッパでも広くコーヒーが飲まれるようになったため、ヨーロッパ商人たちはエジプトでコーヒーを購入し、それを転売してお金を儲けていました。

しかし自分たちで栽培できればもっと多額の利益を得られるともくろんだオランダ人は、1658年に当時植民地であったセイロン島(スリランカ)にコーヒーの苗木を持ち込み栽培を試みます。

ここではわずかながらコーヒーの栽培に成功しましたが、まだイエメンの独占体制を覆すほどの栽培量ではありませんでした。

1695年 イスラム教徒のインド人が種の持ち出しに成功

歴史的に見てオランダ人の持ち出しよりも大きな変化となったのが、イスラム教徒のインド人ババ・ブータンによる種の持ち出し事件でした。

ブータンは巡礼のためメッカに行く途中、訪れたイエメンでコーヒーに出会います。

そこですっかりコーヒーに魅了された彼は、ひそかに7粒のコーヒーの種を母国のインドに持ち帰りました。

7粒のコーヒー豆

そしてインドで栽培を始めたところ、そのうちの1粒が大きく成長し、その木を原木として南インド一帯に広まっていきました。

この出来事はインドでのコーヒー栽培の始まりとなっただけでなく、世界中に流出していくきっかけにもなってしまいます。

現在のインドのコーヒー生産量は世界8位。その生産もたった7粒のコーヒーの種から始まったと考えると面白いですね。

1696年 オランダ人がインドから持ち出し、コーヒー栽培が世界に広がる

その翌年の1696年、オランダの東インド会社によってインドで栽培されたコーヒーの木が当時オランダ領であったインドネシアのジャワ島に送られ、そこで大量栽培に成功します。

ジャワ島

1706年には、その苗木がオランダのアムステルダムの植物園へと運ばれ、ヨーロッパでの栽培がスタートしました。

こうして、ヨーロッパやその植民地でのコーヒーの栽培が拡大していくことになります。

オランダ東インド会社はイエメンのコーヒーよりも低価格で販売したため、当時ブランド化し高額だったイエメンのコーヒーの売り上げは大幅に減少。

逆に東インド会社がコーヒーの売り上げをほぼ独占してしまいます。

このオランダ東インド会社によるコーヒーの木の流出が、コーヒー取引の勢力図を変える大きな事件となりました。

ラテンアメリカへのコーヒー栽培の拡大

最後にブラジルやメキシコなどのラテンアメリカへの広がりについて見ていきます。

1714年にオランダのアムステルダム市長から、フランスの国王ルイ14世にコーヒーの木が寄贈されました。

ずっとコーヒー栽培に関心があったフランスはこの寄贈されたコーヒーの木をパリの王立植物園で厳重に管理しました。

また、苗木や種をアフリカの植民地に持っていって栽培を試みたのですが、あまり良い成果があげられていませんでした。

当時コーヒーの木を一本でも傷をつけて枯らした場合は死刑にされていたそうで、それほど貴重なものとして扱われていたのです。当時、コーヒーは人の命よりも重かったのですね。

1723年 中南米コーヒーの栽培はフランス人の苦難によって始まった

フランスのコーヒー栽培を大成功に導いたのがガブリエル・ド・クリューという海軍の将校でした。

海軍

ド・クリューは西インド諸島のマルティニーク島に配属されていたのですが、一時的に帰国した際にフランス国民がコーヒーにわきたっているの目の当たりにします。

マルティニーク島の気候は、オランダがすでに栽培に成功しているインドネシアによく似ていました。そこで彼は、「マルティニーク島でもコーヒーの栽培ができるのではないか」と考えました。

もしコーヒーの栽培に成功すれば母国フランスへの大きな貢献となります。

パリ王立植物園に掛け合って何とかコーヒーの苗木をもらい、それを配属地のマルティニーク島に帰る際に持っていったのです。ド・クリューはそれをガラスケースに入れて日光が当たるようにし、絶対に枯らさないよう厳重に管理して船に乗り込みました。

しかし、その航海は順風満帆とはいきませんでした。

マルティニーク島への航海

当時コーヒーの苗木は非常に貴重なものだったので、その苗木を狙って海賊が襲ってきたり、妬みに思った他の乗客に枝を折られたり、、、

さらにハリケーンにあったり、船が赤道の無風帯に入ってしまい前に進まなくなるという不運に見舞われます。

船は予定よりも進行が遅れたため、食料や飲用水が不足し、それらは配給制となってしまいました。ド・クリューは自分に分けられたわずかな飲み水を我慢しながら、コーヒーの苗に水を与え続けました。

フランスからマルティニーク島までの航海は1か月以上にも及び、度重なる試練を経験しましたが、何とかド・クリューはマルティニーク島に到着します。

マルティニーク島

そこに苗木を植えたところ、彼の目論見は的中!
マルティニーク島でのコーヒーの栽培は大成功しました。

この出来事をきっかけにフランス領ギアナやキューバ、ベネズエラ、ジャマイカなどラテンアメリカにコーヒー栽培が広がっていったのです。

今ではカリブ海や中南米のコーヒーはみなカブリエル・ド・クリューが持ってきた苗木の子孫であると言われており、あの「ブルーマウンテン」の起源にもなっています。

まとめ 栽培の歴史を見れば今のコーヒーが分かる

今回はエチオピアから始まったコーヒー(アラビカ種)が徐々に世界に広がっていく様子についてまとめてみました。

現在コーヒーの栽培が行われている主な地域は、ブラジル、コロンビア、ホンジュラスなどの中南米、ベトナム、インドネシア、インドなどのアジア圏、そしてエチオピア、ウガンダなどのアフリカで、これらの地域は「コーヒーベルト」と呼ばれていますが、これらの地域に広がっていったのはこの記事で見てきたような経緯があったんですね。

このような歴史を知ると、コーヒー豆を選ぶときにその発展に関わった人物や出来事を想像して、コーヒーをより深く楽しめるようになります。

次はヨーロッパへの広がりの歴史について見ていきたいと思います。

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